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紀州藩初代藩主「徳川頼宣」の逸話がたまらん【ソースはウィキペディア】

ソースはウィキペディアなので史実か軍記か創作かは全く調べる気がないんですけど、

仕事中にどうしても徳川頼宣の情報を調べる必要があってウィキペディア見てたらなんか逸話が、逸話が・・・とても良き😘ってなったので紹介したい。

 

↓徳川頼宣のウィキペディアページ

徳川頼宣 - Wikipedia

★基本情報(ただのウィキのまとめ)

①徳川家康の十男

②紀州徳川家(徳川御三家のひとつ)初代藩主

③8代将軍吉宗の祖父

④1602年(慶長7年)3月7日生まれ

⑤生まれた場所は伏見城

⑥1603年(慶長8年)2歳で常陸国(茨城県)水戸藩の藩主になる

⑦1606年(慶長11年)元服する

⑧1609年(慶長14年)肥後熊本藩主「加藤清正」の五女「八十姫」と婚約

⑨1610年(慶長15年)駿河国駿府藩へ転封

⑩1614年(慶長19年)大坂冬の陣で初陣を飾る

⑪1615年(慶長20年)大坂夏の陣「天王寺・岡山の戦い」で後詰(うしろづめ/敵陣の背後から奇襲をかける)で活躍

⑫1617年(元和3年)八十姫を正室に迎える

⑬1619年(元和5年)紀伊国和歌山へ転封、紀州藩初代藩主となる

⑭1651年(慶安4年)慶安の変で幕府転覆計画を目論んだ軍学者「由井正雪」が頼宣名の偽書を作成していたことが原因で10年間紀州へ帰れなくなる

⑮1667年(寛文7年)嫡男の光貞を後継に据えて隠居

⑯1671年(寛文11年)2月19日(和暦1月10日)死去。享年70。

 

★逸話(ただのウィキのまとめ)

①徳川家康から大層可愛がられた一方で、家康は幼い頼宣に乗馬を強いて、落馬、小川へ落ちても放置した

②初陣となった大坂冬の陣では、家康自ら「鎧初め」(元服後にはじめて鎧を着用させる儀)を行った

③大坂夏の陣にて、頼宣は先陣を希望したがこれを却下されたことに涙し、家臣から「若いんやからこの先、機会はナンボでもあるで若様。元気だしや」と言われる。しかし頼宣は「14歳が2度あるんか!?このハゲー!」と怒り、家康はこの反応を見て「よう言った!その言葉が槍(手柄)やで!」と頼宣を褒めた。諸大名は「さすが若様!」と感心した

④慶安の変において、由井正雪の偽書の件で幕閣から呼び出された頼宣は、「外様大名やなくて将軍家と縁のあるワイで良かったな。もし外様大名やったら天下騒乱に陥って疑いをかけられた大名家は家の取り潰しになっとったやろなあ。ワイは将軍家の身内やからわざわざ謀反するわけないやろ」という釈明をして嫌疑を晴らす

⑤頼宣は刀の試し斬りが好きだったが、仕えていた儒学者「那波活所(なばかっしょ)」から「みだりに人をコロすのを好むなんて人間じゃないで」と諫められたことを理由に試し斬りをやめた

⑥股についていた傷を治療しようとした医者に「この傷はな、ワイのバカな振る舞いを安藤直次(紀伊田辺藩初代藩主/紀州藩附家老)が窘めてくれたときに付いた傷や。ワイがここにおるのも直次のおかげやから、治療せんでくれ」と言った

 

 

逸話の③、よくない?

何この逸話めっちゃエモエモ。エモキュンフィーバー。

徳川家とか正直ほとんど知らんけどこの逸話だけで推せる。

 

「14歳は2度あるのか?」

 

なんだこの言い方ヤバイ。エモキュンフィーバーマックスハート。

ないんだよ。ないのよ。14歳どころか今この瞬間、流れるときなど止められないのだよ。それを我々もしっかり心に留めて生きていきたい。そうおもいますね。

 

基本ウィキペディアとか誰でも編集できるから信憑性なんてないようなものですが、

この他にも色々面白い話があるので、武将や大名を調べるの、やめられねえぜ。

 

仕事でなければ調べなかったし、これを知ることもなかっただろうと思う。

いまの仕事ありがてえな。めちゃくちゃ難しいけど。

あと自分が文系で良かったと心底から思う。

こういうの見て「なにこれオモロー!」って思える心は大事。

 

この調子で歴史系に強いブログにしていきたい。そうおもいますね。自分の(本業の)ために。

 

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