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【令和版日本刀用語辞典】用語を「分かりやすく」解説してみた 1ページ目【日本刀の逸話・伝説編】

本ページでは「(にわかには信じられない)日本刀の逸話・伝説・伝承」のみを掲載しています。誰から拝領した等の現実的な逸話省いてあります。また、「古事記」や「日本書紀」などの宝剣や神剣は数が多すぎるため一部を除き省いてあります。

 

その他、ページ最下部に注意書き(と、お願い)があります。読み終わってからでいいので、ご一読ください。

 

 

あ行

赤小豆欠け長光:あずきかけながみつ

戦国武将・上杉謙信の愛刀/太刀/3尺5寸8分/二字銘「長光」/名称は異名

●以下逸話

「小豆欠け」の由来は、「小豆長光」や「竹股(竹俣)兼光」などの刀に伝わる逸話「赤小豆が刃に当たって割れた」から来ていると推測される

 

赤小豆粥:あずきがゆ

戦国武将・上杉謙信の愛刀/該当の刀は主に2振存在

 

1振目:相州「行光」伝/黄金造り・丸鞘の太刀/3尺1寸(約93.9cm)

●以下逸話

1547年(天文16年)「川中島の戦いの前哨戦」で上杉謙信が本太刀を使い武田軍相手に無双

 

2振目:備前「長光」伝/赤銅造りの太刀/刃長2尺5寸(約75.8cm)/逸話は2説存在

●以下逸話

 1説目/1553年(天文22年)「第一次川中島の戦い」で上杉謙信が本太刀を使って「武田信玄」の弟「武田信繁」を斬った

 2説目/1554年(天文23年)「第一次川中島の戦い」で上杉謙信が本太刀を使って「武田信繁」を斬ったのち、ついでに武田信玄」にも襲いかかった

 

赤小豆粥」の由来は、「本阿弥光悦押形」に記載されていた「あつきかけ」と言う文字の「け」の部分が読みづらかったため「あつきか『ゆ』」と読み間違えた説が有力

 

※「赤小豆粥」は、5月15日に食べると「無病息災」で過ごせると言われる「赤小豆を入れたお粥」のこと。現代にもある「七草粥」と似たようなもの(※例えです)と推測される

 

↓「日本刀大百科事典」に掲載される画像を再現してみた画像(「あつきかけ」と書いてある)

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(くっちゃくちゃだけど実際にこんな感じの字が書いてあるのでご了承ください)(伝説の誤植「インド人を右に!」と酷似している)

 

小豆長光:あずきながみつ

戦国武将・上杉謙信の秘蔵刀/太刀/別称「竹股長光」または「竹俣(竹股/たけのまた)兼光」/鎺元1寸5分(約4.5cm)上部の鎬地に「馬の毛を通すほどちっさい穴」が表裏に空けられている

●以下逸話

元々は越後の百姓が持っていた太刀。逸話は主に2説

 1説目:百姓が山で雷雨に見舞われたため、太刀を頭の上に掲げていたら案の定雷が落ちた。けれど百姓は無事で、代わりに太刀や着衣にべったりと血のりが付いていた。それは雷が太刀によってぶった斬られた血であった

 2説目:百姓が小豆を売っているとき、小豆を入れていた袋が破れていたため、隙間から小豆が転がり落ちた。その小豆が、佩いていた太刀の鞘の割れ目(!?)から出ていた刃先に当たり、拍子に小豆が真っ二つに斬れた

 

●その他、命名にまつわる諸説

①小豆島で打った刀だから

②死体を試し斬りした時に、頭を縦に斬り割ることを「小豆割り」というから

③「川中島の戦い」で上杉謙信に斬られた「輪形月(わずき)平太夫」の「わずき」が訛って「あずき」になった

 

●押形は2種存在

 1振目:刃長2尺8寸弱(約84.8cm)または2尺8寸2分(約85.45cm)/表裏共、棒樋の中に浮き彫りの「三鈷剣」/その脇に「梵字」が1つずつ/銘「備州長船兼光 延文五年六月日」/By本阿弥光德

 2振目:刃長2尺5寸4分(約76.98cm)/佩き表に「三鈷柄の剣」/裏の腰樋は食い違い樋(のような)浮き彫り/銘「備州長船兼光 元徳三年十一月日」/By本阿弥光悦

 

蛙声丸:あせいまる

歌舞伎の演目「傾城青陽𪆐:けいせいはるのとり」で登場する「織田信長」の織田家伝来の宝刀

●以下逸話

1000匹のカエル(!?)が鍛えた名剣。そこから「カエル(蛙)の声」=「蛙声丸」と呼ばれる

 

 後念仏:あとねんぶつ

華奢な刀の異名/所在不明(江戸の森川某所蔵と記載あり)/流派時代共不明/土佐藩老職「広瀬実常」が実見した刀として知られる

 ●以下逸話

昔(時代は不明)、 寒念仏(かんねんぶつ/僧が真冬に行う修行のこと。念仏を唱えながら市中を歩き回る)をしていた僧を刀で斬った。ところが僧はけろっとして、そのまま歩いて行ってしまう。そうして僧が溝を越えようとした瞬間に、体が真っ二つになってしまった

 

鐙切り:あぶみきり

鐙切りの号を持つ刀は2振存在する

 

 1振目:津軽藩の初代藩主「大浦(津軽)為信」の叔父「大浦為則」が所用したと言われる刀/「来国行」作刀/大浦家の宝刀/1627年(寛永4年)4月9日夜に落雷が原因で焼失

  ●以下逸話

馬に乗ったまま、路傍の稲積(にお/円錐形に積み上げられた稲束)を斬ったら、一緒に馬の鐙(あぶみ/馬具の一種で足を乗せるやつ)と自分の膝を斬ってしまった

 

 2振目:金沢藩主「前田家」伝来の刀/号「二王清景」/刃長1尺7寸1分(約51.8cm)/二字銘「清景」/鐙を斬った逸話は伝わっていない

 

油売り:あぶらうり

徳川家康」の差料の号/のち「西尾吉次」が拝領/刀身情報や作刀者は不明

  ●以下逸話

徳川家康」が鷹狩りに出かけた時に、油売りが前を横切ったため、家臣「西尾吉次」に本刀を渡して油売りをぶった斬らせた。油売りはその場では何ごともなかったが、歩いていった先で体が真っ二つに割れてしまった

 

天国:あまくに

仙台藩「伊達家」に伝来した槍/日本刀の祖「天国」が作刀したと言われる

  ●以下逸話

「天国は邪を退ける」という逸話を信じていた仙台藩3代藩主「伊達綱宗」は、雷鳴が轟く中で家臣に命じ、槍を鞘から抜かせて地面へ突き立てさせた。途端に槍へ落雷したが、傍に居た「伊達綱宗」は怪我ひとつ負っていなかった

 

  ●その他の逸話

 1説目:戯作者「本屋宗七」が「亀井戸天神」の奉納刀「天国」を盗んで質屋に売りに行こうとしていた。ところが、その道中の「業平橋」の近くに来たとき、突然すぐ目の前に雷が落ちたので、「本屋宗七」は慌てて元の場所へと返しにいった

 

 2説目:「『天国』は雨を呼ぶ刀」という迷信が存在した。このため、狂歌や狂句などにも「天国」の名が登場する

 

天蠅斫剣:あまのはえきりのつるぎ

日本神話に出てくる神剣/「天羽々斬剣/あめのはばきりのつるぎ」等、複数の異称が存在/素戔嗚尊(すさのおのみこと)所用の刀/「石上神宮/いそのかみじんぐう」の奉納刀と言われている

  ●以下逸話

蠅(はえ)が刃先に止まっただけで真っ二つに切れたことが名称由来と言われる。素戔嗚尊が八岐大蛇(やまたのおろち)退治をする際に使用した刀であったが、八岐大蛇の腹の中に「天叢雲剣/あめのむらくものつるぎ」が入っていたため、刃が欠けてしまった

 

荒切り:あらぎり

長宗我部元親」とゆかりのある太刀/のちに「長宗我部国親」へ献上(※諸説あり)/3尺6寸(約108.9cm)

  ●以下逸話

長宗我部元親」が阿波国(徳島県)に侵攻した際に、家老「福留親政/ふくどめちかまさ」が本太刀を用いて無双を決め込み37人もの敵兵を斬った。この時の働きぶりから「荒切り」と名付けられた

 

い行

雷切り:いかずちぎり

雷切り」という号を持つ刀は複数存在する

 

 1振目:「源義経」(牛若丸)の太刀/※架空の太刀

  ●以下逸話

美濃国(岐阜県南部)の「赤坂宿」で、牛若丸が敵に襲われた際に使用し、相手の首を切り落とした

 

 2振目:備前一文字「貞真」の太刀/刃長3尺1寸4分(約95.1cm)

  ●以下逸話

平家物語に登場する「長兵衛尉長谷部信連/ちょうひょうえのじょうはせべのぶつら」の孫(または子孫)が雷を斬った太刀

 

 3振目:「足利将軍家」の蔵刀/※命名にまつわる逸話なし

 

 4振目:「戸次(立花)道雪」の太刀

  ●以下逸話

立花道雪」が大木の下で午睡(ごすい/昼寝)をしていたときのこと。雷鳴が轟きはじめたため、脇にあった「千鳥」の号を持つ太刀を抜き、空を睨んだ。途端に、雷が落ちてきたのでこれを太刀で斬ったところ、雷はたちまち消え失せた。この出来事から「雷切り」と改名された

 

碇切り:いかりきり

黒田如水(官兵衛/孝高)」の子「黒田長政」の差料/「長船祐光」または「長船祐定」の作刀/長政の子「黒田忠之」が磨り上げさせて差料にした際に1尺9寸5厘(約57.7cm)の無銘の脇差しにしたと言われている

  ●以下逸話

黒田長政」が河畔に陣を構えていたとき、くせ者を見かけたので追いかけていったら、くせ者は舟の碇の下へと逃げ込んだ。刀を振りかざして碇ごとくせ者をぶった斬ったが、なんと刃は一切欠けていなかった

 

 岩切り包保:いわきりかねやす

福島伝兵衛国隆」(軍学者/甲冑師/鍔工) 所有/丹後(京都府北部)出身の刀工「陸奥守包保」(むつのかみかねやす/「右陸奥包保」ともいわれる)が作刀

   ●以下逸話

 「陸奥守包保」が鍛えた刀を「福島伝兵衛国隆」が試し斬りしたときのこと。切先が石に当たった拍子に、石は真っ二つに割れた。この出来事が「岩切り」の由来

※「右陸奥包保」は、「堅物切り/かたぶつぎり」といって、甲冑などの頑丈なものでも斬れるような刀の鍛法を知っていたため、そういった刀には「甲割」という銘が切られることがあったので、本刀にも「甲割」と銘切りされていたらいいなあ

※「左陸奥包保」という刀工もいるが、こちらは大和(奈良県)出身・大阪新刀の刀工

 

岩突きの槍:いわつきのやり

丹波氏次」所用の笹穂大身槍/濃州酒倉(坂倉)関の刀工「正利」の作刀/二字銘で「正利」/刃長1尺2寸7分(約38.5cm)

   ●以下逸話

本槍を用いて敵兵を刺突したときのこと。槍は甲冑を貫いて、後ろの岩にまで到達した。この出来事から「岩突き」と命名

 

う行

浮股信長:うきもものぶなが

細川忠興」(三斎)の秘蔵刀/「浅古当麻・加州信長」の作刀/刃長2尺8分(約63cm)/拵は「信長拵」

   ●以下逸話

浜辺で囚人を試し斬りしようとしたときのこと。振り下ろす瞬間に囚人が突然、前のめりになったため刀は首めがけて落ち、そのまま首をちょん切った。しかし囚人は頭がないまま起き上がり、海へ向かって走っていき、そのまま飛び込んだ。太刀取りはそれを追いかけ海へ飛び込み、水面に浮かぶ囚人の両足を股から切り落とした。この出来事から「浮き股」、「浪股」と名付けられた

 

  ●その他の逸話

 1説目:9名の体を使った試し斬りをしても、切れ味が変わらなかったため、「九つ胴」という異名もある

 

 2説目:「本能寺の変」の際に「明智光秀」に味方した丹後(京都府北部)・弓木城主「一色義定」(細川忠興の妹婿)を謀殺するため、「細川忠興」が自身の居城「宮津城」に「一色義定」を招いたときのこと。「細川忠興」と「一色義定」は向かい合って座り、「細川忠興」は小姓に浮股信長を持ってこさせたが、置かれた位置が悪く、これでは刀を取って抜くのに不都合と思い、近侍の者が料理を運んできたのを見計らって、こっそり刀の位置を動かした。「細川忠興」は、「一色義定」が盃に酒を注がれている隙を見て抜刀し、「一色義定」の肩から脇腹へと振り抜いた。このとき、「一色義定」も脇差しに手をかけていたが間に合わず、斬られた箇所から真っ二つになってしまった

 

 牛切丸:うしきりまる

長船祐定」の作刀

    ●以下逸話

 牛を一頭、真っ二つにしたことが命名由来。

 

牛首月山:うしくびがっさん

化け物をぶった斬ったという9寸5分(約28.5cm)の短刀/作刀者は「月山」/作刀年代共に不詳

   ●以下逸話

洞穴の前を夜中にひとりで通ると化け物に襲われる」という噂を聞いた男が、その洞穴へ出掛けたときのこと。噂通りに大入道が現れたので、佩いていた刀で斬ろうとしたところ、鞘から刀が抜けなかったので、大入道ともみ合いになり、そのまま意識を失った。男の知人が心配して洞穴に向かうと、男が倒れているのを見つけたので連れ帰ったが、化け物退治に失敗したショックで男は寝込んでしまった

男の父親が見かねて「『般若心経』を唱えながら鍛えたこの月山の短刀であれば、化け物もチョチョイのチョイだぞ」と男に短刀を授けてくれたので、男は短刀を手にリベンジマッチに向かう。洞穴前で再び大入道が現れたので、「破ッ!」(※イメージです)と月山の短刀で大入道をチョチョイのチョイした

翌朝、男が再び洞穴まで行ってみると、そこには大入道の姿はなく、代わりに年老いた狐が血だまりの中に倒れていた

 

薄緑:うすみどり

「薄翠」とも書く/「曽我物語」と「剣の巻」に登場する太刀/伝来や名称がそれぞれで異なる/同名の太刀は全国に複数存在

 

●「曽我物語」の名称の別

源頼光「朝霞」/源頼信「虫喰み/むしばみ」/源頼義「毒蛇」/八幡太郎義家「姫斬り」/源為義「友斬り

 

●「剣の巻」の名称の別

試し斬りの際に首だけではなく膝まで斬ったことから「膝丸」/源頼光「蜘蛛切り」/源頼義「吼丸」/2月頃に譲り受けた源義経は、熊野の山がまだ「緑も薄い」ことから「薄緑」と改名

 

●その他「薄緑」と呼ばれる太刀

1振目:「箱根神社」所蔵/無銘/兵庫鎖太刀拵/刃長2尺7寸(約81.8cm)

2振目:徳川将軍家所蔵/「源頼政」所用の太刀/金拵付き/刃長2尺7寸(約81.8cm)

3振目:「剣八幡宮」所蔵/三河国(現在の愛知県東部)西条吉良家伝来/1876年(明治9年)までは存在が確認されていたが現在は所在不明

4振目:京都「蓮華光寺」所蔵/1825年(文政8年)頃に「薄緑」と号する太刀があったという

5振目:「大覚寺」伝来/刃長2尺8寸9分2厘(約87.6cm)/銘「●忠」(1字目は判読不能)/古備前物と推測/1923年(大正12年)に国宝指定

6振目:丹後「宮津城」本庄家伝来/「蜘蛛切り」と呼ばれていた/刃長2尺4寸3分(約73.6cm)/佩き表に素剣・佩き裏に梵字があるが、磨り上げられた形跡があるため、見えづらい/折り返し銘に「長円」の二字銘

 

欝刃:うつじん

中国・雲南地方の妖刀

   ●以下逸話

鍛える時には毒薬を用いて、さらに淬刃/さいじん(再刃と同じ)するときは馬の血を使ったと言われる。この刀で人を斬るとたちまち即死する。また、完成させるのに10年もかかるため、作刀者は暇なフリーターだったとも言われている。別名「浪剣」(ろうけん/なみのつるぎ)

※淬刃の「淬」の読み方が不明すぎたのでググったら「刀剣にしか使われない刀剣の刀剣による刀剣のための漢字」とか書いてあって腰抜けた。読めない。訓読みで「にら」「ぐ」などとも読まれるらしい。読めない。

 

 鵜丸:うのまる/うまる

伝来:白河天皇鳥羽天皇崇徳天皇源為義平清経源範頼源頼朝/作刀者「三条宗近」または三条宗近の子(弟子、または隠し銘との説もある)「吉家

   ●以下逸話(諸説あり)

①鵜がくわえて来た伝説の太刀

②盗人が太刀をパクって京都の寺院「神泉苑」に保管してたときのこと。(いきさつは不明だが)飛んできた鵜がその太刀に触れた途端に真っ二つになったのが命名の由来

③京都・五条橋で太刀を使い千人斬りを実施したところ、うっかり川に太刀を落としてしまう。すると、鵜が2羽現れ、そのくちばしには落とした太刀があった。2羽の鵜が太刀を放すと、刀身にはくちばしの跡がついていたため、「鵜丸」と名付けた

④戦国武将「森長可」が「久々利城」を攻略した際に太刀を手に入れたが、その日から不可思議なことが起きるようになる(具体的に何が起きたかは記載なし)。これを鎮めるため、伊勢神宮に寄進したという

⑤日向国(宮崎県)の大名「伊東尹祐/いとうただすけ」の家臣「稲津重頼」が、綾城の地頭になろうと企み、若狭守「長倉祐政」を陥れて、一族もろとも手をかけた。長倉祐政の弟「法印」は怒り、霧島の池畔で、一族を襲った「伊東氏」「稲津氏」を呪うために37日間、断食・立行(りつぎょう/立ったまま微動しないこと)を行なった。その折、池の中から鵜が1振の脇差をくわえて現れた。それは鎌倉時代初期の「悪七兵衛」の異名を持つ「藤原景清/ふじわらのかげきよ」が、池に投身した際に差していた脇差しだった。法印は、この脇差に「鵜丸」と名付け、「鵜戸神宮」へ奉納したという

 

馬斬り正房:うまきりまさふさ

作刀者「伊豆守正房」/刃長2尺7寸7分(約83.9cm)/島津家の蔵刀/はじめ無銘→のちに「島津斉彬」が追銘を命じる

   ●以下逸話

西南戦争で人馬とも斬り倒したことが命名の由来と言われる

 

梅穂槍:うめのほやり

刀身や作刀者の情報は不明

   ●以下逸話

徳川家康」が「今川義元」の人質として幼少時(つまり「竹千代」の頃)捕らわれていたときのこと。この頃から徳川家康に家臣として仕えていた「阿部正勝」は、今川義元から梅の穂を貫いたという槍を拝領する。この槍は、のちに徳川家康が「梅穂の槍」と命名したという

 

梅実槍:うめのみやり

刀身や作刀者の情報は不明

   ●以下逸話

徳川家康」が「今川義元」の人質として幼少時(つまり「竹千代」の頃)捕らわれていたときのこと。「今川義元」が、「この槍、梅の実を突いたからあげるわ」と言って徳川家康にプレゼントした。のちに徳川家康は「梅実槍」と命名したという

 

 

 

♡注意書き♡

当記事は、日本刀の解説をしてくれてる書籍やサイトの文章が難しすぎてわけが分からないので、若い人でも読みやすいよう勝手に分かりやすい文章に改変する、という主旨の個人ブログの1コンテンツです。

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